今日は、正社員として採用が確定した男「伊達」の初めての出社日。
年齢は35歳なので、本多や榊原といった学生アルバイト講師とは大きな開きがある。
都内の有名進学塾で10年にわたり講師を務めてきたいのだから実績も違う。
私の学習塾で唯一の正社員である酒井にしても社会人としてはまだ新人なのだ。
どう接すればいいのか講師一同が戸惑っていたのも無理はない。
実際に教室に入ってきた伊達は、やや硬い表情をしながら静かに自己紹介をした。
痩せ型の体型で高身長。
よく見るスーツ姿。
取り立てて特徴はない。

あまりにも普通のおじさんという感じなので、井伊あたりは逆に驚いていた。
井伊に限らず、みんなの伊達への第一印象は、「幾分期待外れ」といった感じだろう(伊達には失礼な話ではあるが)。
そもそもそこまでオーラを放っている実力講師を、私の学習塾で引き抜くことなどできやしない。
実績はありながらも一癖あるから年収500万円で移ってきてくれたのだ。
私が事前にみんなに伊達の話をしていたのだが、それがハードルを上げていたようで申し訳ない気がした。
生徒たちの伊達への反応はもっと手厳しいものだった。
「石川先生に戻ってきてほしい!」
「山内先生がいい!」
伊達本人を目の前にして歯に衣を着せない物言いである。
子どもというものは純粋で感化されやすい一方、とても残酷な一面も持っている。
石川や山内と、硬い雰囲気のおじさんである伊達を比べて、どちらが好きか嫌いかを簡単に判断し、安易に口にしてしまうのだ。
塾業界に身を置くものにとって、教え方や指導がうまいか下手か以上に、生徒に好かれやすいか嫌われやすいかは重要な要素なのは間違いない。
講師を好きなら、その指導する教科も好きになるし、勉強量も明らかに変わる。
保護者はその様子を見て喜ぶし、学校の友人はその変化に興味を抱き、同じ塾に通いたくなる。
だからどこの塾でも定期的に生徒に対し「授業アンケート」をとり、評判や人気の数値化を行うのだ。

高評価の講師は優遇されるし、低評価の講師は期待されずやがて静かに消えていく。
塾業界への就業者の回転率の高さの理由はこんなところにもあるだろう。
学歴や知識だけでは通用しない世界。
そう考えると伊達はかなり厳しいスタートラインに立っていることになる。
それでも当の本人である伊達は不機嫌な表情になることなく、また慌てる様子もなかった。
私が心配して伊達に声をかけると、
「生徒の短所は見ません。まずは心を見ることに専念しますよ」
と答えて笑っていた。
この話を顧問税理士の天海さんに電話で伝えると、天海さんは感心したようで、
「その言葉は、幕末の長州藩士である吉田松陰氏のものじゃな。
『自分の価値観で人を責めない。
一つの失敗で全て否定しない。
長所を見て短所を見ない。
心を見て結果を見ない。
そうすれば人は必ず集まってくる』
という言葉じゃ」
「塾講師であれば生徒の短所や成績の結果はまず目がいくところですが、そこを見ないということですか」
「さてどういうつもりかの。
短所を見れば表情は曇るし、
鋭い言葉も出てこよう。
そうなると関係は悪化するだけ。
見なければそうはなるまい。
長所を見れば称賛や承認する言葉となって関係は良好になる。
マイナスからのスタートであれば改善のためには必要な心がけかもしれぬぞ」
「確かにそうかもしれませんが、それでうまくいきますかね」
「ここから先、その伊達という男がどう生徒にアプローチしていくのか見物じゃな。なにかしらの戦略があるのじゃろう。やはりはじめさん、面白い人材を見つけたのではないか?」

