新年度スタートも間近に迫った3月下旬。
1年間の中で最も短い春期講習会が幕を開けた。
ここで気分一新といきたいところだったのだが、思わぬニュースが飛び込んできた。
以前、私の学習塾で働いていた石川が、正式に競合である清洲予備校の講師に採用されたのである。
しかも新しい教室をさらにこちらの近くに新設し、石川はそこの教室長(教室の責任者)となった。
プロ野球の世界では、選手がFAをしてライバルチームに移り、古巣と対戦するというケースは珍しくはないが、塾業界ではさすがにレアなケースである。
プロ野球であればファンはチームを応援しているので戦力ダウンだけで済む話だが、塾業界ではファンは学習塾への愛着よりも、担当していた講師への愛着の方がはるかに強い。
講師の移籍は、そのまま塾生の移籍にも直結する大きな問題だ。

職員室ではやはりその話題ばかりで盛り上がっており、もともと石川を嫌っていた本多や井伊は今まで以上の強い口調でそのやり口を罵っていた。
そもそも石川が退職した原因のひとつは、周囲の同僚から裏切り者のレッテルを貼られたことだった。
裏切りが正解だったと証明してしまったわけなので、本多あたりは「それみたことか」と激しい敵愾心を燃やしている。
私としては、石川が出社しなくなってからこの事態は想定していた。
むしろ思っていたよりも遅かったぐらいである。
さすがに新教室を展開してきて、いきなりそこの教室長に抜擢されるとは考えていなかったが、彼女の力量からすれば当然の起用なのかもしれない。
石川を引き抜いたのは進出してきた清洲予備校の若きエースである竹中。
彼はこの春から埼玉県の塾長を務めるらしい。
竹中、石川ともに人気・実力を兼ね揃えた逸材で、こちらとしては今後の苦戦は必至だ。
しかし私もこの状況をただ待っていたわけではない。
信頼できる顧問税理士の天海さんとは入念に打ち合わせ済みだ。
石川は私の学習塾の大黒柱を担っていた。
こちらの塾生や保護者、こちらの講師陣や組織の仕組み、対応の質やその内容まで彼女は知り抜いている。
しかも地域の人脈も着実に築いているのだからなびく家庭も出てくるだろう。
だが、石川がすべてを知っているわけではない。
例えば石川が去ってから採用した伊達の手腕を彼女は知らない。
伊達の戦略によって冬期講習会から入塾した生徒たちのことも、その状況についてはよくわかっていないだろう。
つまり伊達を中心に学習塾としてのサービスを一新すれば、石川の思い通りに事は運ばない。
むしろ戸惑うのは彼女の方だ。
焦る必要はない。
問題は本多や井伊が石川の裏切り行為に怒り、その中傷を周囲に言い回ることだ。
中傷することで無理矢理石川ファンを刺激し、
同情させ、怒りの矛先はこちらに向けられるため
状況はより不利になる。
私たち講師への信頼も低下するリスクが大きい。
石川は容赦なくその弱点を突いて、牙を向けてくることになるだろう。
天海さんはそういったネガティブな事態にならないよう、
講師陣には中傷禁止を徹底する必要がある
と言い含められていた。

天海さんは、アイルランドの小説家であるジョン・ミリトン・シング氏の言葉を用い、
『あなたの友人があなたを
裏切るようなことをしたからといって、
あなたは友人の悪口を
人に語ってはならぬ。
長い間の友情がゼロになるから』
と話していた。
感情的にならず、冷静な対処が重要だ。
おそらくあちらは内部崩壊を誘発させようとしているのかもしれない。
学習塾として「教育へのこだわり」が試されている。
私の経営もまた真価が試されているのだ。
まずは中傷の禁止を講師一同と共有し、一枚岩となることが私の第一の役目になるだろう。

