師走をむかえ、塾業界は2025年4月の新年度スタートに向け全力で走り始める。
夏入会の塾生3名が期末テストで大躍進を遂げ、競合の清洲予備校で有名な問題児が講習会に参加を決めたということで、冬期講習会募集の追い風は確実にこちらに向いてきていた。
そんな最中に思わぬ情報が学生アルバイト講師の本多からもたらされた。
講師陣の筆頭である石川と、清洲予備校の男性若手講師が定期的に会っているというのだ。
相手は交流会でこちらにも顔を見せたことのある竹中という男で、年齢は石川の2つ年上。
長身で笑顔の素敵な好青年。
一目で女子生徒から大人気だとわかる風貌をしていた。
もちろん石川も私の学習塾の看板娘だ。
色白でりりしい顔付きをしており、人一倍生徒思いなので男子生徒・女子生徒どちらからも信頼されていた。
石川先生がいるから入塾したという塾生は、個別指導でもオンライン部門でも少なくない。
石川は同じく講師陣の柱である酒井と共にこの春に大学を卒業予定だ。
両者とも私の学習塾に内定済みで、春からは正社員とばりさらに活躍を期待している。
その石川と競合のエースである竹中が人知れず会っているというのは不穏な動きとしか考えられない。
現に情報を伝えにきた本多は真っ赤な顔で怒りに震えていた。
本多は石川のことをスパイまたは裏切り者として完全に疑っている。
この件について私はとりあえずみんなには黙っているように本多に告げたのだが、他にも現場を見たという者がいて、たちまち皆の知るところとなった。
その日以来、石川が出社しても他の講師陣の目は冷たい。
明らかに誰もが石川を避けている。
石川もどうやらその原因について気づいているようだが、あえてその件に触れることもなく淡々と業務にあたっていた。
もしも石川が内定を蹴って、清洲予備校に勤めることになったら想像できない規模の大損害になる。
なにせ石川はオンライン部門の責任者でもあるのだ。
戦力が大幅に削られるだけでなく、内情のすべてを清洲予備校に知られることになるだろう。
そんな事態だけは何が何でも阻止しなければいけない。
しかし他の講師陣は先のことなどみじんも気にもせず、目の前の裏切り者への憎しみの感情を押し殺すのに精一杯という感じだった。
言葉に出さないのは、年長で最も実績を積み上げてきた石川に真っ向から意見できる者がいなかったからだ。
優秀な人材の流出についての問題は、以前から顧問税理士の天海さんと何度も話をしてきている。
大事なポイントは、
「社員が残りたいと思える職場環境の整備」。
具体的には、
給与面以外にも、
働きがいや風通しの良いコミュニケーション
という点に力を入れて改善してきている。
やりがいを実感できるポジションや権限も与えてきた。
石川にとって清洲予備校に鞍替えするのは転職するのも同然の話だ。
ヘッドハンティングはキャリアアップの機会で待遇面も向上するが、環境が変わることへの不安もはらんでいる。
現状の環境に満足していればそんな決断は簡単にはできない。
竹中という男と会っていたといっても仕事終りのファミレスで食事をしていたというだけのこと。
石川としては、競合である清洲予備校の何かしらの情報を得たいという目的で、そんな機会を設けたのかもしれないのだ。
講師陣の疑心暗鬼に経営者の私自身も飲み込まれてはいけない。
私まで疑い始めると、転職なんてまったく考えてもいなかった石川を逆に追い込むことにもなりかねないのである。
私は、天海さんが口にしていたソフトバンク株式会社代表取締役会長兼社長の孫正義氏の言葉を思い出していた。
『成功する者と失敗する者の違いは、
頭の差より性格の差の方が大きい』