昔の同僚である山内の起業相談を受けてアドバイスをしている最中、私の学習塾内では思いもよらぬ事態が発生し、少しずつ深刻化していた。
最初の出来事は6月下旬のことで、オンライン部門の講師1名から急に辞退の連絡があった。
諸事情があるとのことで確かな理由がわかなかったが、外部委託であることと、この講師に現状として抱えている生徒がいなかったため引き留める必要もなく承諾した。
それが7月に入り、さらに2名の辞退の連絡があって、何かおかしいということに気づいたのだ。
こちらの2名は担当生徒がいる。
他の講師に引継いで辞めるということだから、個人契約への以降を狙ったものではない。
辞める理由を聞いても最初のひとりと同じく、諸事情によりというものだった。
オンライン部門はリモートワークのため、在籍している講師は全国各地にいるのでただちに人手不足に陥るわけではないが、立て続けに3人も離れていくのは尋常な話ではない。
そしてさらに1名の辞退者が出て、経営者として状況を隅々まで調べる必要があると判断した。
最新の1名は30代半ばの女性で、塾講師の経験もあり、明るい性格で今後の活躍を期待していたのだが、辞めると報告してきたときにモニターに映った表情は見たこともないほどどんよりしていた。
私はこのような雰囲気の変貌を以前勤めていた大手進学塾で何度も見たことがある。
若手職員がこの会社にはもう居られないと追い詰められた際に見せる苦悩の表情だ。
しかし、ここでは正社員でサービス残業が続いたり、募集活動のノルマに追われることなどない。
問題行動のある生徒の対応に疲労したというわけでもないだろう。
そもそも共通する担当生徒もいないのだ。
考えられるのは、オンライン部門の正式な責任者として正式に採用した石川の存在である。
学生アルバイト講師の時代からもっとも信頼している女性だ。
確かにストイックすぎる性格からこれまでも度々周囲との確執もあったが、基本的には生徒から人気もあり、真剣にあらゆる業務に取り組んでくれていた。
石川に限ってと思っていたのだが、辞める理由をじっくり聞いていくと、やはりその原因は彼女だった。
石川が正式職員となった4月から、オンライン部門講師へのレッスン報告を強化した。
石川自身すべての生徒の成績について詳しく管理しており、中間テストの結果からさらに厳しい指摘が行われていたようだ。
もちろんその時間帯に時給などは発生しない。
いわばサービス残業のようなものである。
さらに現状として担当生徒を抱えていない講師にも及んでいた。
担当生徒を獲得するために何をするのかなどTV会議を行って煽っていたのだ。
石川は保護者や生徒に見せる表情と、同僚に見せる表情で大きな違いがある。
理想が高いので、同業者にはその仕事ぶりでは物足りないという顔で相対しがちだ。
だから余計に敵愾心を煽ってしまったり、相手を追い詰めてしまうのだろう。
本人はよかれと思って対応しているだけにたちが悪い。
仕事ができる人がクラッシャー上司として
部下を潰してしまう典型的なケースといえる。
以前の進学塾でもそれが原因で退職した職員を何人も知っている。
起業して学生アルバイト講師を雇用することになった際、顧問税理士の天海さんから、
自分の考えに固執してしまうと
相手への思いやりが欠けるぞ。
そう忠告された。自分ができることは当然相手もできると考えて対応していると、こちらが意図せずとも相手を追い詰める。
天海さんは、チベットの高僧であるタルサン・トルク氏の言葉を教えてくれた。
『他人に対する思いやりと共感は、
私たちが差し出せる最大の贈り物なのだ』
明日、私は石川とじっくり話をしようと決意した。