2025年夏期講習会2日目、欠勤が続いている石川からこの日も体調不良の連絡があった。
連絡はすべて私の携帯電話にかかってくる。
具合のほどや病院の診断はどうだったのかなどを質問してみるのだが、はぐらかすような返答ばかりで状況がまったく把握できない。
さすがの私もじゃっかんだが口調が荒くなって電話を切った。
もしかすると石川は夏期講習会すべて欠勤する気なのかもしれない。
同僚の酒井、後輩の本多・榊原・井伊らは初日の混乱ですでに疲労困憊だ。
仮に2日目の今日を乗り越えられたとしても、3日目には脱落者が出てもおかしくはない非常事態。
私がフル稼働することで、なんとか4人にわずかな休憩時間を確保させられているぐらいだ。
もしも、私を含めた5人の講師の中で体調不良者が出たら、完全にアウト。
無理をして個別指導から集団指導に近い対応になっているが、もはやシフトの限界となっている。
朝の打ち合わせをした際の全員の疲れ切った表情を見ると、最悪の想定をせざるを得なかった。
かといって石川を自宅から無理矢理出勤させるわけにはいかない。
パワハラで逆に訴えられる恐れがある。
さすがにそこまで石川が策謀しているとは思えないが、今の石川は怒りを欠勤という形でぶつけてきているのに間違いなかった。
それが他の講師陣もわかっているだけに、実ににがにがしい顔付きで心ここにあらずといった感じだった。
頭の中はこの後の生徒対応ではなく、石川への恨み節が駆け巡っていることだろう。
学習塾を経営してきてここまでのピンチは初めてだった。
このままでは無事に夏期講習会を終えることは不可能だ。
一般生からだけでなく塾生からのクレームが押し寄せてくることになる。
入会活動どころか、退塾意向への対応に追われることになるだろう。
考えれば考えるほど最悪の事態しかイメージできなかった。
顧問税理士の天海さんには相談していたが、さすがに天海さんにレッスンをお願いするわけにはいかないので、人手不足は解決のしようもない。
教室全体にネガティブな雰囲気が漂っている中、不意に訪問者が現れた。
講師陣にはその顔に見覚えがあった。
最近、教室に見学に来ていた他の進学塾のベテラン講師だ。
そう、私の前の職場の後輩で、起業を目指して活動している山内の姿だった。
最初、私はなぜ山内がここにいるのかまったくわからなかった。
表情は笑顔で、手には何冊か教材を持っていた。
私の学習塾で使用しているテキストだ。
「起業スタートまでまだ期間があるし、しばらく授業もしていないから鈍ってきたところだったんですよ。天海さんからはじめさんにぜひ協力してほしいと頼まれましてね。ちょうどいいので参加させてもらおうかと。もちろんボランティアではないので、きっちりいただくものはいただきますよ」
捨てる神あらば拾う神ありとはまさにこのことだ。
経験豊富で、進学塾では優秀教室長として表彰されたこともある即戦力がヘルプに来てくれたのである。
「はじめさんには今回の起業の件でお世話になってますから、安くしておきますよ」
情で動くタイプではなかったので、山内が自分に直接関係ない私の学習塾を助けてくれるとは意外であった。
「いやいや、はじめさん驚きすぎでしょう。それを見て他の講師のみなさんも引いてますよ。天海さんから共和政ローマの政治家であるキケロ氏の言葉を聞いて感銘を受けたんですよ。
『恩を受けた人は、
その恩を心に留めておかなければならない。
しかし、恩を与えた人は、
それを覚えているべきではない』とね。
さすがはじめさん、与えた恩は覚えてないようですね。
きっとそういった恩を与える行為の積み重ねが
思いも寄らぬ幸運を招くこともあるんじゃないですか」