A県で最も塾生数の多い清洲予備校が、奇襲を仕掛けて私の学習塾の近郊に新規開校することになった。
無料で開講する夏期講習会は、とにかくたくさんの生徒に参加してもらい、そこから入塾へ落とし込むためのイベントで、大手ならではの手法だ。
夏期講習会の売上が赤字でも地元の教室で補填がきく。
無名の個人塾の無料開講はさほど気にする必要もなかったが、知名度が高い清洲予備校となると話は別だ。
実際にこちらに申し込んでいた一般生で5名のキャンセルがすでに出ている。
理由は確認するまでもなく、無料の清洲予備校への鞍替えだ。
以前から顧問税理士の天海さんには、この手の手法に対抗して無料講習会を打ち出すのはデメリットが大きすぎると言われている。
確かに体力のない個人塾が、大手進学塾と同じ土俵で体力勝負をして勝てるわけがない。
下手をすると夏期講習会だけに留まらず、冬期講習会、春期講習会とすべての講習会を無料で開催しなければならなくなり、そうなると私の学習塾は経営が立ちゆかなくなる。
これまで他県からの同業者の進出にはまったく注意を払っていなかった。
勝負するのは地元の老舗の進学塾という固定観念と、ここにわざわざ大手が進出することはないという決めつけがあった。
全国区を競合として意識していたのはオンライン部門ぐらいである。
こうして振り返ってみると危機感が欠如していたかもしれない。
地元の評判も高まり、通ってくれる塾生数が増えたことでかなり安心しきっていた。
兆しはあったのだ。
大きな建物がしばらく前から建設され始めていた。
それが何なのかまで確認はしていなかった。
清洲予備校からは事前に交流会を持ちかけられていた。
何のための提案だったのか、
日ごろから視野を広く持ち、
よく考えることを習慣にしていれば
察知できたこともあったかもしれない。
天海さんからは徳川家康公の
『得意絶頂のときこそ、
隙ができることを知れ』
という忠告をここ最近受けていたのに、自分はそのつもりでも実際は穴だらけだった気がする。
昨日、期末テスト対策の際に塾生と面談していると、
「あっちの塾に無料見学に行っている塾生いるらしいよ」
という話を聞いて愕然とした。
その生徒は、生徒自身ともその家庭とも揺るがない信頼関係を築けていると自信を持っていた塾生だったからだ。
見学に行っただけで、こちらを退塾して移ると決まったわけではないが、もしそうなったら波紋は大きく広がるだろう。
なにせ今回の中間テストで大きく順位を伸ばし、学年2位まで食い込んだ期待の塾生で、人柄も良く周囲に大きな影響力を持っている。
ただ夏期講習会の費用が安いだけの学習塾であればここまで不安は感じない。
しかし私は事実を知っている。
交流会で見学に来た若手のホープ2名が期末対策のレッスンを担当しているのだ。
元気で明るく、魅力溢れる若者だった。
生徒の心を掴むのはそう難しい話でもない。
名前は確か、男性が前田、女性が美濃だったはずだ。
生徒だけでなく、こちらの学生アルバイト講師の心すら掴んでいたのが印象的で、特に石川が目を輝かせて2名を見ていた。
ここで踏ん張らないと、夏期講習会の一般生はおろか、塾生すら根こそぎ持っていかれる心配すらある。
その対応策すら何も浮かばない。
後手後手に回っているのがとても悔しいのだが、ここで慌てても仕方がない。
隙を見せてしまったのは自分なのだ。
天海さんからはとにかく今は我慢強く生徒対応に集中するよう釘を刺されているので、とにかく期末テストを成功させることだけを考えよう。
焦らず塾生の信頼度をさらに高めることが大切だ。