他県でトップシェアを誇る清洲予備校が進出してきて2週間あまり。
ネームバリューと夏期講習会費用無料の効果によって、私の学習塾の夏期講習会に参加する予定だった一般生のうち8人がキャンセルとなった。
個人塾での8人のキャンセルは大きな痛手だ。
あちらに移籍する塾生がまだ出ていないのがせめてもの救いだろう。
ただし、無料の期末対策講座に参加していたという声も聞こえてくるので、いつ退塾意向が出るのかと針のむしろに座っているような気分がする。
一般生は仲の良い友達同士で夏期講習会に参加するケースが多いため、1人が鞍替えすると自動的に数名が同じ動きをするのだが、これは塾生にも当てはまる。
1人でも移籍する塾生が出れば、友人はもちろん、同じ部活の後輩まで影響が及び退塾は連鎖していく。
昨日から降り続いた雨がようやく止んだ昼頃、私は顧問税理士の天海さんの事務所を訪れた。
相談する内容はやはり清洲予備校の近隣への進出。
天海さんからは、とにかく我慢強くやるべきことに集中することが大切だというアドバイスを受けていたが、今後への不安が払拭できないのでなかなか業務に集中できていない。
「生徒がどの塾で学ぶかは生徒の自由。ここをまず割り切ることが必要じゃの」
「あちらは夏期講習会からの入会活動に全力を尽くしてくるでしょう。多くの塾生数で夏期明けスタートとなると、こちらの塾生への引き抜きも活性化してきます」
「引き抜きか、それは特別問題のない行為じゃからの。ヘッドハンティングは企業を強くする有効な手段じゃ。虚偽の情報を相手方の塾が広めて引き抜き工作しているのであれば違法性を問えるじゃろうが、真っ向勝負では文句のつけようもない」
「真っ向勝負ですか・・・・・・」
「もっと自信を持って堂々と挑めばよい。これまでの努力や成果は裏切ることはない。はじめさんが培ってきた人間関係、実績、評判、信頼を思い出すのじゃよ」
「心配ないということでしょうか」
「強いて言えばはじめさんのその動揺が心配じゃな。それでは他の講師陣にも余計な影響を与えてしまうぞ」
「確かに塾長である自分がこれまで積み上げてきたことをまず信じなければなりませんね・・・・・・ そう考えると、不安ばかりが頭をよぎって業務が手に付いていない現状の方が大きな問題でした」
「しかし、経営者にはネガティブな要素も必要じゃ。
ネガティブだからこそ
将来起こるリスクを想定し、
備えることができる」
「以前に天海さんがそうおっしゃっていたことを記憶しています」
「今回の騒動、生徒がどこで学ぶかという塾生数の問題だけではなくなるかもしれん」
「といいますと?」
「孔子の言葉に、
『良禽は木を択んで棲む』
というものがある。
忠義は大切な価値観ではあるが、
優れた者は才のある主君を選んで仕えるのが自然の流れ。
そのためには今の主君や国を捨てても
仕方が無いということじゃの。
今回の交流会ではじめさんの学習塾で働く優秀な講師が、あちらの本部に見学に行っておる。おそらくサービスの質の高さやそれを支える講師への待遇面、企業理念などについても説明を受けておるはずじゃ」
「つまり、生徒だけでなく講師もヘッドハンティングの対象になっているということでしょうか」
「はじめさんがこれまで人材育成や労働環境について親身に対応してきたのは紛れもない事実であり、だからこそ優秀な人材が集まり育っている。ただし、今後どうなるのか、その点にも考えを及ぼす必要があるかもしれん。生徒や家庭がどこで学ぶのか自由であるのと同じように、労働者もまた己の職場を選ぶ自由があるからの」
「そ、そんな・・・・・・」
「あくまでもリスクを想定した話じゃよ。早め早めに手を打てば対応は可能じゃ」